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新生のらくろ君Aの館

新生のらくろ君Aの館

フィリピン時代その1


フィリピンで過ごした時の日記(1)

マニラ空港には、ベテラン駐在員が出迎えてくれた。
暫く立っていると、向こうから声を掛けてくれた。
私もその人の写真を確認のために持っていったのですぐわかった。

今回もビジネスクラスで、ゆったりとフライト出来た。トランジットがない直行便なのでバゲッジの紛失に対しても余り気を遣うことはなかった。
シンガポールよりも近く、4時間40分の予定フライトだった。成田でチェックインをすると、もう海外である。デューティーフリーの店が並んでいるが、之と言って買うものもない。

日本工営の連中は、海外が慣れているので、ちょっと明日から、チュニジアへとか簡単に飛び立っていく。私はそうはいかない。周到な準備がないと気持ちが落ち着かない。とは言っても考えても分からないので、適当に詰め込んだバックを、カウンターに預けて、MNLのタグを確認し、搭乗ゲート前で待った。

ジャンボ機は、重たそうに離陸した。飛行時間が短いけれど機内サービスがある。
日本航空なので、全く海外へ行く気がしない。ただ空港で、待ってくれている駐在員が見つかるかどうかが心配だった。日本とフィリピンは時差が1時間ある。着陸寸前に時計を現地時間に合わせた。
12月も末に近いので、背広を着込んで出かけたが、ニノイ・アキノ国際空港に到着した時は、熱気でむっとした。バゲッジを取り出し、出口へと向かった。出口には大勢の人がたむろしていて、空港を出て直ぐ左のスロープという細かい約束がなかったら、見つからなかったかも知れない。

 フィリピンに背広を着てくるのは日本人ぐらいしかいないから直ぐ分かったのかも知れない。駐在員は、運転手付の車に乗っている。自分もやがてそうなるのだが、この国では、個人で運転することは御法度のようである。何しろ運転が荒く、且つマナーが最低である。下手に運転して、車を壊されても損だし、命に関わるようなことにもなりかねない。駐在員の運転手は、フェデリコといった。「おーい、フェデリコ」と呼べども、来ない。
「申し訳ない、もうすぐ来るはずなのだが」と駐在員は釈明した。
私は、背広を脱ぎ、待ったが汗が流れ出てどうしようもない。待つこと2時間ばかり、やっとくだんのフェデリコ君がやってきた。
彼の言によると、大変な渋滞で、その波に入り込んで、どうしようもなく抜けられなかったとのこと。駐在員は特にとがめる風でもなく、フェデリコが、置いた車の場所まで私を案内した。
こうして、フィリピンの第一歩が記された。
私は駐在員に連れられて、本部のあるビルまでフェデリコ運転の車で行った。そこで、今回のプロジェクトのメンバーであることを紹介され、その後、片平エンジニアリングの事務所に挨拶に行った。
今回のプロジェクトは、フィリピン国道に架かる橋の状態調査であるが、そのプライムは、片平エンジニアリングで、日本工営は、サブであった。一応の挨拶を終え、駐在員は、彼を、駐在員が泊まっているコンパートメント近くの宿(ヴィラ?)に案内してくれた。
そこで私は、1週間だけ落ち着くことになった。駐在員は、「今晩食事をしましょう。それまで休んでいて下さい。食べるものは何でもありますよ。」と言い残して、階下に消えていった。

私たちと一緒に仕事をすべく、年が明けてすぐ、日本から、5人が来ることになっているらしい。事前の顔合わせもなく、現地での初対面である。やがて私はコンドミニアム(アモルソロ)マンションに移ったがそれまでは一人だった。
結局早く来ても、することはないわけで、正月くらい日本で過ごさせてくれたらいいのにと思ったりもした。
夕方、駐在員が、宿に訪れ、食事に行こうと誘ってくれた。運転手は、チップを払って待たせておくというのが、しきたりらしい。運転手は待っているだけでチップが貰えるので、その方が嬉しいらしくニコニコしている。余り律儀に社用ばかりで使うと、運転手の実入りが少なくなるということのようだ。

駐在員に導かれるままに、中華料理の店に入った。案外美味しかった。その後ディスコに行った。駐在員行きつけの場所のようだった。舞台の上で踊っている踊り子に、白人を含めて、東洋系の人種や、アラブ系の人種が注目している。売り子がアルコール類の注文を取りに回っている。無難なビールを注文する。バーのような、横木が、店の周りにあって、そこに腰を掛けると、店の娘が寄ってきて、我先に飲み物をせがむ。気に入らないと「No」と言わない限りしつこいので、即座に「No」と言うように教えられていた。

****

やがて、片平エンジニアリングが仕立てた車が迎えに来るようになった。しかしオフィスに出ても、特にすることがない。オフィスには、橋梁のデーターベースを作るということで、データーベースのベテランと名乗る人が着任していた。ところが、この人は、英語が全く分からず、更にデーターベースも何をやっているのか分からないということでやがて交代になった。電話が掛かると、「English no,no」である。その人がリーダーだということでとてもついていけないと文句を言ったものだ。
もう一人、若い人で、海外青年協力隊(JOCV)経験者だ。この人の英語はブロークンでも兎に角話しかける。度胸だけは満点であった。その若い人は、アモルソロマンションに入っていた。

運転手と車の都合もあり、私もアモルソロマンションに引っ越した。
駐在員は、正月は、日本だと言うことで、帰国するとのこと。帰国に当たって、「○○さん、ゴルフ道具がある方が良いですよ、日本で、私の家に宅配してくれたら、次に来る時に持ってきてあげますよ」と言ってくれた。
私はそれをまともに受け取り、家に連絡して、ゴルフ道具を一式駐在員のお宅まで送らせた。
フィリピンの正月はマンションから爆竹の音がやけにうるさい道路を見るだけになってしまった。
タクシーはぼると聞いていたし、目の前のネオンは入っても大丈夫なのかを聞かないと、ひょっとして、ぼられるかも知れないしと、身動きが取れなかった。

根が臆病な私は、何事も石橋を叩かないと渡れない。今回の滞在は半月あったわけだから、何とかなったはずだが、私の気の弱さが、それを阻んだ。
それに加えて、元の会社から、海外安全のしおりなどと、フィリピンの政情を伝えてきた。
モロイスラム解放戦線(MILF):現地ではニューピープルアーミィー(NPA)と呼ばれる、テロ組織が、韓国企業を襲ったと通知が来ていた。例えそれが離れたミンダナオ島であっても、やはり気になった。

私たちが住んでいたのはM/M(メトロマニラ)の中でも少し山の手に相当する、マカティという区画だった。此処は安全と言うことだったが、自動小銃を持ったポリスか、ガードマンがいるのには、やはり違和感を感じないではいられない。
ニノイ・アキノが空港で射殺されたのも思い出された。

我々のプロジェクトとは関係ない第2マクタン橋を建造するプロジェクトの人達も来ていた。
マクタン島は、セブ島の隣の小さな島であり、現在1橋吊り橋が架かっているが2橋目を掛けようと言うものだった。
そのグループの人達は、長くマカティに住んでいるので、周りを知悉していた。
その中でも長老で、未だ衰えずと言う人がおられたが、この人について回り、カラオケ屋に随分と通った。落ち着いてみるとアモルソロから川を挟んだ通りは、日本人が経営する、カラオケ屋の通りであった。

フィリピンでの仕事は、正月だしリーダー不在で進まない。定時間まで、何やかやとやるが、特に必要なこともない。駐在員が再び帰ってきた。重いゴルフバックを持ってきてくれた。
駐在員自身は余りゴルフをしないらしいが、一度一緒に行きましょうと出かけた。
パブリックに近いゴルフ場でキャディーは男であった。ラウンドし始めると、誠に調子がよい。

フォアキャディも付く。打ち上げのショートホールで、真っ直ぐ飛んだ。良い感触ではあったが、登ってみると、Mr.○○グッドショットと言って、見るとピン傍50cmについているではないか、その時は上機嫌になったが、次のホールで、あわやOBかと思いいぶかしく前方を見ていると、どうもOB臭い、フォアキャディが、ぎりぎりのところにボールがあるのを指してセーフだという。
之でからくりが分かった。フォアキャディが、ボールをピン傍に寄せたり、OBボールをセーフにしたりしていたのだ。こうすることにより客の機嫌を良くし、多くのチップをはずませようとの魂胆であった。
折角持ってきて貰ったゴルフバッグもそんなこともあり、又駐在員の腰が悪くなったり、他にする人が居なかったりで、1回しか使わなかった。

プロジェクトのメンバーは、入れ替わってしまった。大概が英語の問題だったようだ。日本工営から白人が、一人やって来て、ことが巧く進むようになった。ローカルエンジニアも、シニアとジュニアがそれぞれ来たが、その中でも選考され、まあ、ましな人間が残された。

私と、仲間は、よくカラオケ屋に行った。色々なカラオケ屋があったが、皆スタイルは同じ、日本の歌を、舞台で、現地の娘と一緒に歌う。従って、旧い歌、特殊な歌等になると、女の子は傍に付いているだけで歌えない。日本で、流行っているデュエットソングなどは、彼女達は喜々として歌う。

此処で、彼女達の年を聞いて、若いからと言って喜んでは行けない。例え18であろうと子持ち(独身)がいるのだ。だから、先ず彼は、「How many children do you have?」から初めなければならないことを知った。そうして大概、子持ちが多かった。
フィリピンの男は、働かないことで有名であり、且つ浮気者と相場が決まっているらしい。
あちこちの娘に種を植え付け子供が出来たらパロパロ(蝶々)と次に移ると言うことだ。

フィリピンの女性は、健気で、残された子供を自分の稼ぎで、育てようとする。破綻するものもいたり、大変なようだが、兎に角よく働く。フィリピンの女性には、4種類あって、土着の人間、マレー系の人間、中華系の人間、それにスペイン系の人間。

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彼女たちは総じて日本語を巧く操った。

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上級の学校に行っているのではない身の上で、よく勉強したものだと思った。こういっては失礼かも知れないが、水商売出の女性が、一番難しいと思われる日本語でほぼ正確に自分の意志を伝えていることはある種驚異で的である。

例えこれが、商売で、指名が欲しい、常連客に戻って欲しい、いちずな気持ちからとしても、十分評価されるのではないだろうか。

彼女たちはジャパ行きさんを何回か経験していることだろう。そこで、客とのコミュニケーションを計り、日銭を多く稼ぐために勉強したのだろう。例え動機がどうであれ、彼女達は、好きで故国を離れて働いているわけではない。十分な仕事があり、そこで働けるなら、故国で、家族と一緒に暮らしたいだろう。
彼女達ジャパ行きさんに限らず、海外で、働く女性の仕送りで、フィリピン経済は成り立っているとも言う。コラソン・アキノ、アロヨと女性の大統領に代表されるようにフィリピンの女性は働き者であり、逆に男性は不甲斐ないものが多い。

ジャパ行きさんは、18歳くらいから待ち行列が出来、1回の観光ビザで6ヶ月を過ごすと母国に帰る。
それの繰り返しを何回かすると、店で、ある程度の権限を持たされる。所謂チーママである。
その様にして、彼女達の実入りも良くなるのだろう。しかし30を過ぎた、女性は例えチーママと雖も余り見かけない。
それだけ就業年限が短いのである。それでも彼女達は頑張っている。
日本のあちこちで、フィリピーナの店が多い。私は、フィリピーナの店は好きだが、そのオーナーが狡猾な日本人であることが嫌いだ。従って、彼は、ODAではなくPDA(Personal Development Assistance):私の作った造語で、彼女達に直接チップを払うことの方が良いのではないかと思う。

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それからも、橋梁調査の手はずは整わず、相変わらず、待ちの状態が続いた。
夕食後も一人で、カラオケ店へ行くことが多くなった。

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第2マクタン橋プロジェクトの人と懇意になった。一人は、年配の方で、60は遙かに過ぎているような感じだった。もう一人は彼より若く、旺盛な体力の持ち主であった。年配の方は、自分で料理もされ、自炊しておられた。時々私にも声が掛かり、一緒に夕食を取ることも多かった。そして、そのまま、町に繰り出したり、部屋に女の娘を呼んだりして、歳に似合わず元気であった。
年配の方が言うには、「我々は、日雇い労働者みたいなものだよ、只違う点は、日雇い労働者は、トラックで仕事場に行くが、我々は、それが飛行機に変わっただけだよ」
なるほど、と私は思った。女性に対する、年配の方は、ふくよかなタイプが良いらしい。

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若い方の人は、豪快で、物怖じしない性格であった。時々、我々の住むマカティからマニラのダウンタウンまで、「○○さん行きませんか」と声を掛けてくれる。
タクシーは危ないと聞いていたが、いとも平気で乗る。
フィリピンの車は日本車が多いが、その殆どが中古車である。何時壊れても良いようなのが一杯走っている。マンション前に待つ車の内、程度の良さそうなのを見つけて、乗り込む。若い人は測量技師で、運転手に店の名前を言う。車が、マカティを抜け、ごみごみしたマニラ市内に入って行く

ネオン街が近づいた頃、測量技師は、運転手に、「デリッチョ、・・・」(まっすぐ、まっすぐ)と言ったり「カリワ」(左)または「カナン」(右)と運転手を誘導する。
デリッチョは真っ直ぐ、カリワは、左、カナン、は右であることが分かった。
測量技師は、フィリピーノは英語が出来るが、運転手にはタガログ語がいい、こちらもフィリピンが長いので、たやすく騙されないぞというジェスチャーでもあると言った。

さて目的の店に着く。ゴーゴーバーだ。マニラに着いた日に駐在の人に連れて行って貰った類の、それを少し大きくしたような所だった。測量技師は、適当に飲み物を取るように言い、且つ、舞台をながめていた。

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彼女達は、店から、僅かなお金しか貰っていない。その殆どは、オーナーである、日本人が、かすめ取っている。情熱的なフィリピーナと、非情な現実を同時に見る羽目になった。
それでいて、結構彼女達は、快活である。置かれた立場を正面から受け止めている。

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数日後、カマヤンというフィリピン料理専門のレストランに食事に行った。そこでの客は、右手で、葉っぱの上の魚と、ご飯を混ぜ合わせて、器用に食べる。私はスプーンとナイフで食べる。
之がフィリピン料理かと思ったが、これから先、立派な食事にありつけないこと(田舎のどさ周り)など想像もつかなかった。

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カラオケ店には、当然日本人客が多い。中には、タガログの正装(バロン・タガログ)を着てくる日本人もいる。
私たちはその男が、某大手企業の人物だと知ったが、一様に軽蔑した。
なぜなら、日本で、安物の飲み屋にタキシードを着てくるのと同じ事をやっているわけだからである。
その人物は、白いその正装を武器に女性を引きつけようとしていた。
現地の女性は、金を多く持っていそうな人間を好む。概して、日本人は、金持ちだから、分け隔て無く寄ってくるが、アラブ人などに対しては、とても冷ややかである。
その人物は、正装を着ていることで、より金を持っていると言いたかったのかも知れない。
カラオケ店には、ショータイムというのがあり、店の女の娘が全員で、舞台狭しと踊る必要があるらしい。それは、一瞬華やかであるが、彼女達の寂しい面を感じる一時でもあった。

マンションにいる時に電話があった。Ishiと名乗る。聞いたことはあるが、その姓字には、2人ぐらいの記憶がある。どうにも分からないで居ると、マンションに来るという。半信半疑ではあるが、良いですよと答えると、約束の時間にロビーで待っていた。見て直ぐ分かったが、千葉の建築鉄構時代に私の管轄下にいた下請けの棒心の顔がそこにあった。懐かしさに、何故、此処にいるのかを尋ねると、棒心は、フィリピンで農場を経営していて、セブでジープニーを数台持っているという。現地妻をも持っていて、完全な2重生活を行っているというのだ。千葉で溶接棒を握っていた男が、そんな生活をしていることに驚いた。

月に1度はフィリピンに来るというその棒心に、そんな生活もあるのかと妙に感心した。棒心は、夕方迎えに来ると言って、一旦帰っていった。日本にいる時は、特に目立った所もなく、一介の溶接工であるかのように思っていたが、裏にこの様な世界を持つなんて、私には、信じられなかった。
夕方、ホテルに再び訪れた棒心は、現地妻を伴っていた。片言でのタガログ語と、英語での紹介を終わると、現地妻は帰っていった。

棒心と私と棒心の通訳的な男の3人は、隣のケソンシティまで行き、食事をして、大きなディスコバーに入った。
そこは二階があり、そこは、階下を見下ろせる個室になっていた。軽い飲食をしながら、カラオケを歌ったり、傍の女性との会話を楽しんだ。
棒心に送られて、ホテルに帰った私は、何か夢を見ているようで、俄には信じられないと首をひねった。

そんな生活を2ヶ月近くしているうちに、事務所のあるボナベンチャーには、何人かの入れ替えの後に、調査に向かう人間が、フィックスしてきた。日本工営3名、片平エンジニアリング3名の6名で、フィリピン全土の国道に架かる橋の調査をするが、地区を分けることになった。全国7000橋ともそれ以上とも言われている。最初日本工営のアメリカ人は、中部のビサイアス地方担当で、彼は、ルソン島北部西岸を担当することになっていた。アメリカ人は狡い所があって、ルソン島北部西岸は橋の数も少なく、一度そのアメリカ人はその地域を担当して調査した経験があり、調査期間が少なくて済むと言う計算があるようだった。そこで、私に地域の交代を依頼してきた。
私は、山より海が好きなので、別に気にもせず、快く応じた。
私の下で調査を共にする、シニアのローカルエンジニアは女性だった。お世辞にも美人とは言い難かったが、アメリカ人は、フィリピンの女性はよく働くので、良いという。地域を交代して欲しい理由に使っていた。之が後々大誤算であったことをその時想像も出来なかった。

兎にも角にも、1.ルソン北西部、2.ルソン北東部、3.ルソン中央部、4.ルソン中央と西部、5.ビサイアス、6.レイテ、7.ミンダナオと7つの区域に別れその内ミンダナオは、NPA(イスラムの過激主義者)が出るので危険と言うことで、ローカルをリモートコントロールする形で行われた。

フィリピンプロジェクト

分担も決まり、一応の判定基準が決まり、ランク付けも「A」「B」「C」ときまった、「A」は掛け替えを要するか、緊急に補修を要する。「B」は近いうちに補修が要する。「C」は正常あるいは、軽微な損傷であり、交通に支障はないと言うことで分類することになった。7地域にそれぞれ、現地のエンジニアと呼ばれる(本当はどうか分からない)連中が配分された。生まれ故郷を聞いてみると、フィリピン全土から集まった連中だった。ルソン島北部から、中央部に掛けての出身者が多く、私の行くビサイアス地域出身も3人いた。問題のミンダナオ島にも故郷を持つ者がいたので、必然的にその3人はそこに振り当てられた。

フィリピンは7000余島の島から構成された、共和国である。環太平洋火山帯に含まれているため、最近のピナツボ火山でのダメージは、橋梁にも大きな影響を及ぼしているようだった。
フィリピンの国土交通省に当たるのが、DPWH(Department of Public Works and Highways)で此処が、各地方に分局を置き、もっぱら橋の補修作業を行っている。おそらく自力で、長大な橋を造る能力はないように思われた。マニラに於いてさえも高架橋は数カ所しかなく、地方では皆無であった。

私に割り当てられたエンジニアは、シニアが、フロール・デ・スルース(女性)、ジュニアが、ロセール・ロドリゲス(男性)と言った。以降はフロール,とロセールで通した。彼らの名前をフルネームで聞くと,どんな血筋のやつかと思うけれど,概して頼りないやつが多い。
彼らとの間で、金銭面での契約を結び、最初の給料の他は特別のことがない限り、追加の金は支払わないと言うことで同意した。更に、地方での宿賃も、実費払いであり、出来るだけやすい所に泊まることを契約書に盛り込んだ。食事に関しても、領収書のあるものは、認めることになったが一切の余分な金は出ないシステムになった。

一方アメリカ人を含む、海外部隊には、1日150ペソの領収書無しの金が支給されることになり、又宿も出来れば、高くてもよいと言うことになった(しかし現実は、殆どローカルと同じ宿に泊まることも多かった。)更に月に2回の割合いで、パーティーと称して、(ご馳走の食べられるところがあれば)宴会をしても良いという話が我々に与えられた。

この様に決められた、チーム編成の途中でも、英語に自信のないものや、老齢でやっていけないものは、交代して、やっと落ち着いた所で、各自、任地に出かけることになった。A.B.Cのランク分けの意思統一も図られたが、何しろ私には橋の査定は初めてであったし、ローカルもいい加減なのばかりで、とにかく主観での判断になるしかない。

そしてやがて、担当地区も決まりそれぞれに出立した。

****

UP(University of Philippines)=日本なら東大を出て、企業に働くものや、水商売をしなければ食えない連中まで、矢張りどの国も同じだなと思いながら、夜が更けるのを、遠くビサイアスでの仕事に思いをはせた。

出発の当日になった。フロールは、旦那が、空港まで送ってきていた。フロールの出身地はたタルラックというルソン島東北部に位置する所であった。又、ロセールはビサイアスのビサヤ島の北部に実家を持っていたので、実家に帰れることを喜んでいた。空港にて、セブ行きのPAL(Philippines Air Lines)航空を待った。最初から、飛行機は遅れた。フロール達は、時間どおりでないことを自嘲的に、フィリピン航空について、そのPALの略号を取って、Philippines Always LateないしPhilippines Already Leavesと言っていた。兎に角運行は、時間通りに行かないのが常のようだ。1時間くらい待って、セブ島へ向かって飛行機は飛び立った。セブ空港には、第2マクタン橋建設プロジェクトの人が迎えに来てくれていて、その車で、市内のホテルに落ち着いた。近くの現地事務所をたずねて、現地の業者のボスに挨拶をした。業者の車の運転手を借ることになっていた。運転手は小柄なサングラスを掛けとっちゃん帽子をかぶった男だった。

フロールは少し太り気味の目のくりくりした、お世辞にも美人では無い女性で、シニアであるが余り頼りになりそうではなかった。
その後、2ヶ月間は、空虚な生活が待っていると想像すると寂しさは、拭えなかった。その事が、私を最後に悩ませる結果になろう事はその時知る由もなかった。ジュニアのロセールは、小柄な男性で、明らかに女性よりも若く、多くを語らないタイプだった。

車の掃除をしている、運転手は、リト・ロメロといった。今後長い検査期間になりそうなので、途中で車が故障することが一番困ると思い、運転手には良く車を整備しておくように頼んだ。

セブの市内を、調査するのが、最初の予定であった。出発までには未だ日数があったので、セブのリーゾートホテルのプライベートビーチに、リトに運転をさせて、海水浴に出かけた。
数時間の後に迎えに来るように言って、リトを帰し、飲食出来るガーデンレストラン風の所を、通って、プライベートビーチに出て、水着に着替えて、澄んだ海水にゆっくりと浸り、リゾート気分を味わった。そこは遠浅で、かなり沖の方まで泳いで出て行った。他には2、3人が泳いだりビーチパラソルの中にテーブルを置いた所でくつろいだりしていた。

沖に出て行った私は、船に乗って近づいてくる一行に出会った。彼らは何か、タガログ語でこちらに向かって話しかけてくる。特に怒っているようでもなければ、何のことかといぶかしく思った。プライベートビーチは、コテージというか、ホテルというかで、その敷地毎に区切られていた。その領海を荒らしているわけでもない、何だと英語で聞くと、彼らの内英語を喋るのが運よくいて(と言うか、必ず居るのかも知れない、何しろ英語は、公用語であるからだ)

****

客引きの船を見送ると、その船は、次の獲物を目がけて声を掛けていた。私は、暫く泳いで、サングラスを落としていることに気が付いた。透き通った海ではあるが、泳いだとおぼしきあたりを辿って、潜ってみたが、大きな海を相手では見つかるはずも無く、之からの検査旅行に必需品である、サングラスを落とす不始末を悔やんだ。

海から上がり、西洋人客がちらほらいる、ガーデンレストランで、リトが来るまで、ジントニックを注文した。全てのものが安いが、矢張り、セブは、観光スポットなので、少し高い。日本人の観光客には会わなかった。きっと日本人は、もっと良いホテルに泊まっているに違いないと思った。一人で飲むジントニックは、ほろ苦かった。これから先の検査ドライブについて、思わずため息の出る気分だ。このまま、このリゾート地で、ゆっくり出来る身の上であれば言うことはないのにと感じないではいられなかった。

見れば、ちらほら居る外国人は、白人が多く、皆年寄りの夫婦連れが多かった。かの国は、その様なシステムになっていて、リタイヤしたら、ああしてゆったりと自分の時間がもてるのだと感じた。
その点日本人は、一応に若く、刹那的な、ガイドに引率された、団体旅行で、私はセブに行ったのよと言いふらすのだろう、何処かが矢張り狂った国になってしまっていると考えてしまった。

丁度ジントニックを飲み干した頃、リトはやって来た。リトは、色の濃いサングラスをしている。又、アンちゃん帽をかぶっているのですぐ分かる。向こうから「ミスター○○」と大きな声を掛けてきた。
「十分に泳いだか」と聞くので、「時間はたっぷりあったが、サングラスを落としてしまった」
と答えた。リトは残念そうな顔をしたが仕方なく運転席に戻っていった。

リトの運転で、セブ市内のホテルに帰った。今日はもう良いというと明日又事務所に来ると言って帰っていった。ホテルには、第2マクタン橋の測量士氏が待っていてくれた。一緒に飯を食った後、ホテルのラウンジで、又ジントニックを注文した。測量士は、いつもながらの落ち着きで、「何時出発ですか」と聞いてきた。「2~3日の内でしょう。未だ要領が分からないもので」と、本当に何時出発して良いものやら、考えてしまった。

彼は、「泳いで疲れているでしょうから今日はマッサージを呼べばいいですよ」と言ってくれた。さほど高くはないとのことだった。測量士と別れて部屋に帰る前に、フロントにマッサージを頼んだ。外もほの暗くなっていたので、一風呂浴びて、マッサージでもうければ、気分も晴れるだろうと、シャワーを浴びガウンに着替えた。

荷物の整理をした後、シャワーを浴び終わり、ベッドにばたんと倒れて、明日からのことを考えていた。

****

翌朝、事務所に顔を出す。特にすることもない。車の段取りや、ローカルエンジニアとの打ち合わせをした。マカティからの指示も未だ来ていない。
その夜は、片平の次長がセブに来ていた。第2マクタン橋関係である。次長は、私よりも良いホテルに泊まっていた。事務所から、ホテルに帰ると次長からメッセージが届いていた。今夜一緒に飯を食べましょうとのことだった。海外での気安さ、相手が誰であろうと直ぐ懇意になる。特にケソンのボナベンチャーで、顔見知りであるし、橋梁調査の関係もある。
夕食は、日本料理ではなくステーキだった。セブは観光で成り立っていると思っていたが、私の居るホテル近辺では、適当な日本料理は望めなかったのかも知れない。

ジープニー混雑

セブ島の話をするのが遅れた。セブ島は、彼の持ち場のリージョン6で、フィリピン中部のビサイアスと呼ばれる中の3番目に大きな島である。東はボホール島とレイテ島に、西はネグロス島に対する。レイテはリージョン8になり私の持ち場ではなかった。太平洋戦争で名前を覚えた地名があちこちにある。島は、南北に細長く全長217km、最大幅は32km。山がちな地形で、最高点は標高670m。バナナのような形をしている。海岸部の肥沃な平地ではタバコ・サトウキビ・綿花・コーヒー・トウモロコシなどを栽培している。また、石炭と銅の埋蔵量は国内第一とも聞いたが、ぴんと来ない。おもな産業は衣料品製造・陶器・精糖など。近年は島全体をとりかこむサンゴ礁が、多くの観光客をあつめている。島の面積は4422km2。中心都市は西岸のセブで人口は60万人ぐらい、周辺の小島をふくむセブ州の人口は260万人程度と聞いた。

ステーキを食べて、次長らと共に、セブの少し高級そうカラオケ店につれて行かれた。そこは、その次長(会社)の行きつけの場所らしく、我々コンサルを接待(慰労)するのが目的だった。
何しろそれから先の行程がどれほど苦しい過酷なものかは我々は知らないだけで、その次長はおそらく熟知していたのであろう。


*******

夢のような数時間であった。支払いは心配ないし、高級な酒は飲めるし、と言ってもウイスキーの水割りであるが。なかなか気が付く次長さんだと思った。しかし、それからの難行を知らない私には、その意味が未だよく分かっていなかった。こうして、セブの2日目が過ぎた。別れ際に明後日から出発して欲しい旨、打診があった。私に異論のあろう筈がない。(いやあった。もっとセブで楽しみたかった。思わず仕事を忘れるような日々であったからだ。)さあ之からかと、ホテルに帰り、ホテルのラウンジで、一人静かにジントニックを飲んだ。
カウンター越しの女性はおそらく30歳前だろうか?この国では30歳にもなると相当風格もあり、とにかく、美しさと、知性を感じる迄になるのは不思議である。

****

翌日、事務所で、ローカルエンジニアであるフロールとロセールと3人で、この先の打ち合わせをした。
マニラで入手した、DPWH(Department of Public Works and Highways)のDirectorの書状を持って、プロビンスのオフィスに出向きその書状を、水戸黄門の印籠よろしく、見せて、局のダイレクターに地域を管轄する、各支部長宛に協力要請状を書いて貰うことから始めなければならなかった。

私が得た書状には次のように書かれていた。
REPUBLIC Of THE PILLIPPINES
DEPARTMENT OF PUBLIC WORKS AND HIGHWAYS
OFFICE OF THE SECRETARY
MANILA
27 January,1995
ATENTION:All Regional Directors

SUBJECT:Bridge Inspection for the Rehabilitation and Maintenance of Bridges
    Along Arterial Roads.

Sir:

This department has engaged the services of the Bridge Inspection Team comprising of
An Expatriate Consultant and Counterpart Local Consultant to conduct an
Inspection/investigation on Bridges nationwide for assessment of deterioration and
defect of the above-captioned subject in various District/City Engineer’s Offices in your
Region for possible foreign financial assistance for a Nationwide Bridge Program.

Please extend assistance and full support to the Bridge Inspection Team in order to
Obtain an effective evaluation.

Also kindly advise your District/CityEngineers respectively in this regard.

Very truly yours,

MANILA M.BONOAN
OIC Undersecretary

要するに海外からのコンサルタントと、国内のコンサルタントが国道沿いの橋を調査に行くから便宜を図るようにと、副大臣クラスのボノワン氏が書いたものであった。

セブ市の中央の官庁(何処が、官庁かと思うような建物)に出向いて、ラスマン氏というリージョナルダイレクターに挨拶した。最初英語で、訪問の意図を少し話したが、後はフロールが、タガログ語で、適当に喋っていた。何しろ印籠に代わるボノワン氏の書状を見せるのであるから、話は簡単である。まして、日本からわざわざ国際援助に来ているわけだから、相手はにこにこして、各支部に当てた、協力要請状を書いてくれた。それにはこう書かれていた。

REPUBLIC OF THE PHILIPPINES
DEPARTMENT OF PUBLIC WORKS AND HIGHWAYS
OFFIC OF THE Regional DIRECTOR
REGIO ?, CEBU CITY

February 1 1995

Memorandum to:

District Bridge Engineers
This Region

Chief of technical Divisions
Regional Office

All Bridge Inspection Team from DPWH, Manila, is conducting
An inspection/investigation on bridges national wide for
Assessment of deterioration and defects for possible foreign
Financial assistance for a Nation wide Bridge Program. The
Team consists of an Expatrite Consu1tant and Counterpart
Local Consultant.

In this connection, it is hereby directed that you extend
Full support and assistance to the team for the completion
Of their mission.

For compliance.

BASHIR Rasman
Regional Director

とまあ上意下達というところである。

<次ページに続く>






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